蝶は舞う、しかし牛は存在する
前回、太田光が太宰治と宮沢賢治のことを書いた文章を引用しましたが、ぼくはあの文章を読んで、
「フィッツジェラルドと、ヘミングウェイやな」と感じました。
スコット・フィッツジェラルドと、アーネスト・ヘミングウェイは1920〜30年代のアメリカを代表する作家で、「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれています。フィッツジェラルドは「グレート・ギャツビー」(あるいは、華麗なるギャツビー)、ヘミングウェイは「武器よさらば」、「誰がために鐘は鳴る」などが代表作ですね。
二人は友人であり、ライバルでもあったわけですが、フィッツジェラルドが二人のことを書いた文章が、太田光の文章とそっくりだったのです。村上春樹が「フィッツジェラルド・ブック」なる翻訳を出しているので、それに入っていたな、と思って探してみたのですが、発見できず。たぶん、「マイ・ロスト・シティ」という短編集に入っているのだと思うのですが、これは本自体が行方不明です。
仕方なく「フィッツジェラルド 蝶 牛」とgoogleで探してみたら、なんと、ぼく自身が書いた文章がひっかかりました。
ヘミングウェイが、同時代の作家であるフィッツジェラルドと自分を対比して「蝶は舞う、しかし牛は存在する」と表現した
と、書いているのですが、自分のことを蝶と書いたのは、フィッツジェラルドだったように思います。ますます気になるのですが、また改めて確認してみようと思います。
学生時代はフィッツジェラルドが好きで、英会話の授業では、「彼の作品だけではなく、その生き方も好きだ。あんな風に生きたい」と言うと、先生から「彼は43歳で死んだんだよ!」と驚かれた覚えがあります。40歳になった今では、43歳では死ねないな、と思いますが、あのころは充実した生活を送ることができれば、若く死んでもいい、と本当に思っていました。ちょうど、おやじがガンと闘っていた時期なので、間近に迫ったおやじの死を、そうして正当化したいと無意識のうちに感じていたのかな、と思います。
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