チンギス・ハンと申監督
日経新聞の連載で、チンギス・ハン(ジンギスカン)の物語が始まりました。
大学を卒業して、生保に就職したのですが、ちょうど1年たったころ、高校のサッカー部の先輩から
アメリカ映画の制作の仕事をやらないか。
と声をかけてもらい、転職しました。
そこで制作しようと計画していたのが「ジンギスカン」でした。
当時のバブルの日本資金でハリウッドに現地法人を設立し、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの役者を使い、ソ連(現在のカザフスタン)でロケをするという壮大な計画で、韓国人の申相玉監督が会社設立から制作の準備まですべてを取り仕切っていました。
韓国映画を代表する監督であった申監督は、奥さんで韓国のトップ女優だった崔銀姫さんとともに北朝鮮に拉致され、映画制作を強要された後、アメリカに亡命したという経歴の持ち主です。映画は全くの素人だったぼくを、家族の一員のようにかわいがっていただきました。当時すでに75歳だったけども、何よりも映画が好きで、映画を作ることが好きで、その監督が強烈な推進力になってプロジェクトが進んでいくのは快感でした。
誰もが無理と思っても、一人の人が「やりたい」という意志を持ち、「できる」と信じて、あらゆる努力を重ねれば、関係者を巻き込んで達成できる、ということを示してもらったように思います。
アカデミー受賞の作家に脚本を書いてもらい、カザフスタンのロケハン、キャストのオーディションなど順調に進んでいたのですが、日本のバブルがはじけ、ソ連が崩壊して計画は頓挫することになりました。その代わり、確実に利益の出る映画を制作しようということで制作した作品が、大成功することになったのは、皮肉でした。
その成功談は、次回に。
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