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2006年2月

祝!金メダル 荒川静香

2006/02/25(土)

アマゾンを開いてみると、

荒川静香 フィギュアスケートでは日本人初の金メダル獲得
20%OFF『荒川静香 Moment ~Beautiful skating~』、フリーに使用されたプッチーニの歌劇「トゥーランドット」を収録した『ハバネラ〜オペラ・アリア名曲集』、メダル獲得者のエキジビションで使用する『Celtic Woman』CD、DVDなど発売中。

とのこと。テレビでは、金メダルの演技とともにプッチーニが頻繁に流れるわけですから、確かにCDも売れるでしょうね。

うちの母はスポーツ全般のファンなのですが、特にフィギュアスケートは好きで、トリノの間もフィギュアで日本人選手が登場する時間になると、わざわざ電話をかけてくれていました。

「次、安藤さんやで」
って、なんで、さん付けになってんの?

「こっちも、起きてるっちゅーねん」
と思いつつも、おかげで確実に早起きをすることができました。

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サッカーでmixi?

2006/02/24(金)

サッカーSNSというサービスを展開している、株式会社ラクシーズの間瀬佳昭社長とお会いしました。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サイト)は、自分のプロフィールや日記、気に入った本や映画のレビューをサイトにアップし、サイト上でメールのやりとりなどもできるサービスです。すでに参加している友人からの招待状が必要なため、ウェブ上でのコミュニケーションに安心感があることも手伝って、国内最大手のmixi(ミクシィ)は300万人近いユーザーが参加しています。

ぼく自身、勉強のつもりで5つほどのSNSに参加していますが、

なかなかおもしろいです。

出身校を登録する機能もあり、おかげで20年以上ぶりに高校時代の友人と会えたりしました。

最近では音楽や映画などに特化したサービスも増えてきており、サッカー、フットサルでやってみよう、という計画を昨年から暖めてきました。ワールドカップ前に形にしたいと考えていたところ、我々の構想と近い形で登場したのが、「サッカーSNS」。サポーター、プレーヤーの両方に対応した機能、コンテンツが搭載されています。

最初に発見した時は、正直言って、

やられた。。

と思いましたが、目指すものが同じであれば、タイアップできないかということで今回、こちらからコンタクトを取らせてもらった次第です。

間瀬社長は、まだ20代ながらなかなかしっかりした考えをもった好青年。まだ会社の規模は小さいながら、なにか一緒にやってみたい、と思わせる人物でした。

この件で、間瀬社長とどこまで組めるか、いまのところは何とも言えないのですが、どんなかたちで公開できるか、間もなく固めることができはずです。プレーヤー、ファンの皆さんや、フットサル施設を運営されている皆さんに喜んでいただけるようなサービスをぜひ実現したいと考えています。

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起業時の仲間

2006/02/21(火)

先日、日経新聞でサイボウズの細谷賢由さんの副社長就任を知りました。細谷さんは弊社が1999年に会社を創業したときのメンバーです。

創業当時、会社経営についての知識の乏しいぼくは、創業時のボードメンバーとのミーティングのたびに刺激をうけて、新しい知恵や知識を仕入れて、帰りの新幹線に乗る前に本屋で関連するビジネス書を買って、車中で読んで、ということを繰り返していました。カラダはきつかったけど、何もかもが前向きだったし、短期間に多くのことを学ぶことができました。

金融出身で、複数のベンチャー経営にかかわっていた細谷さんからは、会社の「資本」などについて、多くを教えてもらいました。ネットバブルのなかで会社を守ってこれたのは、細谷さんをはじめとする多くの人の、それぞれの立場・視点からのアドバイスのお陰です。

今になってみれば、30代にしては青かったなと思うことも多いし、間違った判断もいくつもあったけども、それも含めて、現在の自分の糧になってきたのだと思います。

ただ、前向きに進む時の勢いや、その勢いに周囲を巻き込んでいく力が自分の持ち味だと思っていますが、当時を振り返ってみると、何人もの人に迷惑をかけたのではないかということだけは反省です。

創業時と比べれば多少の深慮も身に付いたかと思う反面、がむしゃらな勢いが衰えたように思えて、自分自身納得いかんことも多いです。

今年は、いくつかの大きなプロジェクトが目の前に広がっていて、それは大きなチャンスであると同時に、危険な落とし穴も潜んでいるように見えます。今や、単なるがむしゃらで突き進むことはないですが、勢いをつけてチャンスをつかんでいきたいと思います。

そして、そのチャンスをつかむための、社内外の仲間の存在も頼もしく思います。かつての仲間の細谷さんとはひさびさにメールのやりとりをしましたが、そんな仲間の存在もありがたいものです。

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映画の仕事(最終回)

2006/02/19(日)

3ninjas.jpg映画の話の続きです。

先日のLAでは高校時代の友人の牧野宅にお世話になりました。そういえば、ぼくの初海外旅行は牧野と行ったLA〜ラスベガスで、その時は二人とも英語もたどたどしく、わけもわからずダウンタウンの危険なエリアのホテルに泊まってたりしたので、ビビりまくったものでした。そんな牧野が15年もアメリカで仕事しているのですから、不思議なもんです。

大ヒットになった「3NINJAS」の邦題は、主演の3人のコスチュームが柔道着風だったこともあり、「クロオビ・キッズ」。日本では忍者の映画はダメだから、とのことでした。

ニンジャは我々日本人が想像する以上に、アメリカでは認知されています。ただ、カンフーや空手といった、武道・武芸のひとつと考えられているようで、本屋でもカンフーの本のとなりに「NINJUTU」なんて本が並んでいたりします。「3NINJAS」のスタント、アクションは香港・台湾のチームが担当していて、どう見ても忍者ではなくカンフーなのですがアメリカ人にはおかまいなしです。

チャーリー・カオを中心とする、その中国人チームは陽気な楽しいメンバーが揃っていて、かわいがってもらいましたが、特にチャーリーからは映画の現場のことなど色々と学びました。アメリカで、申監督をはじめとする韓国のメンバーたちも含め、国籍を超えて、「アジア」という仲間意識を持つことができたのは、映画の仕事での最大の収穫の一つです。

第2作目では日本ロケを行い、ぼくも制作のスタッフと同時に、リムジンの運転手役でスクリーンに登場することになりました。左ハンドルを運転できて、英語を話せるから、という単純な理由ですが、全米第3位の作品に出演できたのは、ラッキーでした。台詞は台本では5つありましたが、公開されたときには3つにカットされていました。。

現場とプロデューサー、日本とアメリカに挟まれて、若かったぼくにとってはプレッシャーのきつい仕事でしたが、貴重な体験でした。あとは、若いうちに東京で仕事したこと、アメリカで各国の人たちと関わる仕事ができたこと。いまのサッカーの仕事に直結しているわけではないですが、ラッキーでした。

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奇跡の経営

2006/02/17(金)

kiseki.jpg
アメリカで世話になった牧野が、「これ読んでみ」、と薦めてくれた「奇跡の経営」を読みました。

訳者まえがきには

この本は、世界一コントロバーシャルな(論争を巻き起こす)本です。

とあります。

なにしろ、著者の最大の主張は

コントロールの放棄

です。自分の好きな時間、場所で仕事をして、給与までも自分で決める、という驚くべき経営方針なのです。

そんな会社成り立つわけがない、というのが一般的な反応だと思いますが、著者のセムラー氏が経営するセムコ社は、6年間で売り上げが3500万ドルから2億ドルに成長という実績を残しています。

巻末の推薦の言葉には

本書に見られる「情熱、直感性、多様性」はブラジル人がこよなく信じる国文化、価値観を反映したもの

と、あります。

これって、ピンときませんか。

そう。ジーコの指導、監督術も、まさにこの価値観に基づいたものですね。

個人的には、トルシエよりも、ジーコの指導に大いに共感するのですが、経営者として、本書の手法をどこまで取り入れることができるか、と自問しているところです。

最後に、翻訳もなかなかよかったです。この本に先行して読み始めたビジネス書があり、内容はいいのだけど、翻訳が少々古くて読みづらく感じていたこともあり、特に印象的でした。

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ジャイアンツのホームで見た代表

2006/02/11(土)

サンフランシスコでのアメリカ戦は、3−0とリードされ、後半に巻、中澤のゴールで3−2まで追いすがったところでゲームセット。試合立ち上がりこそ何度かエリア内でのシュートチャンスをつかんだ日本ですが、最近に何試合かこなしているアメリカと、Jリーグのオフから代表合宿で始動して間もない日本の差がはっきりと表れ、前半は圧倒された感がありました。1対1でくずされるのではなく、同型のチームに対してここまでやられるのを見るのはつらかったですね。特にワントップの久保は久々の代表できつそうでした。

後半は佐藤と巻をトップに投入し、阿部や長谷部などがチャンスを得て、積極的な攻めが見られ、スタジアムも大いに盛り上がりました。

「Home of San Francisco Giants」SBCスタジアムでの開催で、バックスタンド側にベンチがあったりするのは野球場ならではの風景でしたが、観客席から見るかぎりは、それほど違和感はありませんでした。観客には日本人が多かったのには少々驚きましたが、アメリカの観客は、ゴールシーンでは盛り上がるものの、ゴール裏のサポーターも少なく静かななのはちょっと拍子抜け。日本でも何度か球場でサッカーやってますね。小学生のころ、ペレを球場で見たのを思い出しました。

ハーフタイムには、バーカウンターあたりで洪明甫を発見ました。アドフォカート監督らとスタンドで語り合う表情には全く笑顔もなく、皆が真剣な表情だったのが印象に残りました。

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サンフランシスコに到着

2006/02/11(土)

LAには数え切れないくらい来ていますが、サンフランシスコは2度目になります。前回は、パロアルトという街のジムでトレーナーの仕事をしていた福田を訪ね時なのでずいぶん昔になります。その福田も昨年起業して、いまではスポーツ人材に関わるライトスタッフという会社の社長です。

ホテルは今日のアメリカ代表と日本代表の試合が行われるSBCスタジアムから徒歩で10分ほど。チェックインする時に、「観光ですか?」と聞かれたので、
「今夜のサッカーの試合を観に来た」
と言うと、「ア〜・・・」と目を泳がせていました。

ま、アメリカですから、サッカーに対する認知はこんなもんですね。

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3NINJASは、クロオビ・キッズ

2006/02/08(水)

ジンギスカンのことを書こうと思ったのは、日経の連載もありましたが、今週末から久々にアメリカに行くことが決まったから、ということもありました。いまでは映画時代の恩人・友人とはすっかり疎遠になってしまいましたが、いまでも映画と、アメリカ、そして当時の仲間は、ぼくのなかで強く結びついている思い出です。

とにかく映画一筋の3年半でした。ちょうど、Jリーグの開幕に重なり、あのブームからは距離を置くことになりましたが、あのころは将来サッカーの会社を作るなんて想像もできなかったというのが正直なところです。

さて、「ジンギスカン」の企画のあと、短期間で制作し、確実に利益を上げる企画ということで、「ホームアローン」の流れを受けての子供向けのアクション・コメディ、そして日本人の強みを生かしての忍者もの、ということで、「3Ninjas」という作品を制作することになりました。3人の兄弟が、元忍者のおじいさんの教えを受けて悪と戦う、という物語で、「ホームアローン」、「ニンジャ・タートル」、そして「ベスト・キッド」からおいしいところを盗んだ作品です。

この低予算で制作した作品が見事に大ヒットとなり、全米興行収入4位を記録しました。「収入÷制作費」では、ウーピー・ゴールドバーグの「天使にラブソングを」に続く年間第2位になり、パート4まで続編が作られることになりました。

ヨーロッパ各国でも軒並みトップ10入りの大ヒットになりましたが、日本ではニンジャでは売れないということで、「クロオビ・キッズ」というタイトルで公開されました。ビデオにもなり、WOWOWでも何度か放送されていましたが、海外のようには売れなかったのは残念でした。

もちろん配給のパラマウントは大儲けだったと思いますが、一番ラッキーだったのは、この作品でデビューした監督のジョンにちがいないです。このジョン・タートルトーブという変わった名前の若者は、まだまだ経験も浅く、現場ではプロデューサーの申監督に完全に仕切られて、自分では「アクション!」という号令を出すだけ(自分でも「オレはミスター・アクションや」ってネタにしてた)だったのが、この大ヒットのおかげで、「クール・ランニング」、「 あなたが寝てる間に…」、「フェミメナン」、最近では「ナショナル・トレジャー」と、次々とヒットを飛ばす大監督になってしまったのでした。

またまた長くなってきたので、続きは次回。

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チンギス・ハンと申監督

2006/02/05(日)

日経新聞の連載で、チンギス・ハン(ジンギスカン)の物語が始まりました。

大学を卒業して、生保に就職したのですが、ちょうど1年たったころ、高校のサッカー部の先輩から

アメリカ映画の制作の仕事をやらないか。

と声をかけてもらい、転職しました。

そこで制作しようと計画していたのが「ジンギスカン」でした。
当時のバブルの日本資金でハリウッドに現地法人を設立し、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの役者を使い、ソ連(現在のカザフスタン)でロケをするという壮大な計画で、韓国人の申相玉監督が会社設立から制作の準備まですべてを取り仕切っていました。

韓国映画を代表する監督であった申監督は、奥さんで韓国のトップ女優だった崔銀姫さんとともに北朝鮮に拉致され、映画制作を強要された後、アメリカに亡命したという経歴の持ち主です。映画は全くの素人だったぼくを、家族の一員のようにかわいがっていただきました。当時すでに75歳だったけども、何よりも映画が好きで、映画を作ることが好きで、その監督が強烈な推進力になってプロジェクトが進んでいくのは快感でした。

誰もが無理と思っても、一人の人が「やりたい」という意志を持ち、「できる」と信じて、あらゆる努力を重ねれば、関係者を巻き込んで達成できる、ということを示してもらったように思います。

アカデミー受賞の作家に脚本を書いてもらい、カザフスタンのロケハン、キャストのオーディションなど順調に進んでいたのですが、日本のバブルがはじけ、ソ連が崩壊して計画は頓挫することになりました。その代わり、確実に利益の出る映画を制作しようということで制作した作品が、大成功することになったのは、皮肉でした。

その成功談は、次回に。

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